『ギャングスタ・アルカディア ~ヒッパルコスの天使~』について

未来や過去のために動かない。今この瞬間だけを肯定しようという姿勢には、時間が人の心を癒し、それによって問題が解決されてしまうパラドックスに抵抗しようという力強さがある。だが、同時に、時間に癒されないということは、あらゆる偶然に曝されて、その一身に責任を引き受けなければならなくなることを意味している。

「責任」という言葉の重みはまさにそのようなものだ。自らの「選択」に対して責任を果たそうとするのではなく、ただ偶然に身を曝すこと。それがギャングスタアルカディアが提示する責任であり、倫理であった。

 だからシャールカの「ソファの上の理想郷」に立つもの(寝転がるもの?)は、常に今、現在、この瞬間を楽観し、楽しみ、遊びながら、「なんとなく」過ごしていく(過ぎ去っていく)そのさなかで「偶然」がもたらす責任に耐えなければならない。

 ただ、シャールカがそう宣言したように、肯定されたのはこの世界であり、別の世界(可能世界)ではない。その限りにおいて、シャールカの世界はいくらか幸福であり、耐えるに値するものであるかもしれない。

 そして世界とは、叶が最後に記した「手紙」のように、この意識によって芽吹いたものではなく、すでに「書かれたもの」としてある。そしてそれはいつだって後付けの行為でしかない。もし、あなたが誰かの手紙を受け取ったなら、あなたはその手紙によって支えられているし、今を生きている。この文章も、キャラクターたちから受け取った手紙への応答になっている。

「手紙? 何も書いてないじゃないか」

「俺たちが生きていること自体、手紙を受け取ってるみたいなものなんですよ」