いじめと小説? 『死にぞこないの青』と『ただ、それだけでよかったんです』

 いじめを題材とした2つの小説があります。2001年に幻冬舎から発売された、乙一著『死にぞこないの青』と、電撃大賞を受賞し、今月に発売された松村涼哉のデビュー作『ただ、それだけでよかったんです』です。2001年と2016年の頭に出版されたそれぞれの小説は、乙一は23歳、松村は21歳と、著者が若いタイミングで書かれています。

 書かれた年代はその著作に反映されています。2001年に書かれた『死にぞこないの青』は中学生の男の子の一人称で、いじめが内面へいかに干渉するかをグロテスクに描く。対して、『ただ、それだけでよかったんです』は2001年以降、ライトノベルが普及した時代において、その設定の合理性から主人公は高校生に設定されています。現代でのライトノベルでは、明確に中高生かそれ以上をターゲットにすることから、感情移入を促すことから中学生よりも高校生がキャラクターとして積極的に設定されます。いま、電撃文庫というライトノベルレーベルから出版されるにあたって、中学生の内面を深掘りしていく作品ではなかったのにはそれなりの必然性があるでしょう。

 そしてその相異は内容にまで及んでいます。『死にぞこないの青』では主人公の前に「アオ」という自身の内面の鏡像が現れ、その「アオ」との葛藤が作品の中心にあります。しかし、『ただ、それだけでよかったんです』では、主人公が「革命」と名指した、状況を変えるための行動が作品の中心にきています。前者の作品は、「アオ」に突き動かされた主人公がとある行動に出ることでストーリーがクライマックスへ向かいますが、後者の作品では主人公は能動的に行動を起こします。そ能動性は、「アオ」に突き動かされ、支配された受動的な行動とは対極にあります。

 いじめの現場において、その加害者が能動的に状況を変える、『ただ、それだけでよかったんです』でいうところの「革命」という物語は、真の解決をむかえることがありません。なぜなら、『死にぞこないの青』と『ただ、それだけでよかったんです』で共通して描かれているように、いじめとはスクールカースト社会におけるエコロジーだからです。いじめにおける犯人は環境が作り出したものであり、その環境があり続ける限り、目の前の「いじめっこ」を掴まえても新たな「いじめっこ」が現れる。

 そのようなシステムに挑んだのが『ただ、それだけでよかったんです』の主人公でしたが、自身を「みじめ」と形容するように、スクールカースト社会を変容させるほどの力が主人公にはなかった。だが、いじめの現場を取り押さえることではなく、その温床となるシステムへ目を向けることが「革命」の第一歩でした。システムの存在を浮かび上がらせる試み、それを見届ける第三者=読者の視点を獲得することがこの小説の目的であるならば、もう一人の主人公である女性が「探偵」としてロールプレイし、ミステリ的な仕掛けを張り巡らせ、最終的な破綻を迎えることは、目的を実現させるための方法であったのでしょう。

 新しい作家のデビュー作は、その内容における目的と、それを可能にする方法論において、優れた実践を行い、それは成功したように思えます。主人公が語りかける「キミ」への信頼と、自ら破綻へと向かうミステリ的叙述が、内部への停留を回避し、外部に届く「声」を発した、現代の小説だといえるでしょう。